第一問

次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

トレードオフというものはこの世界に流れる数少ない普遍的な原則である。何も我々人間(ホモ・サピエンス)に限った話ではない。どんな生物にとっても利用できる資源は限られているから、何かにエネルギーを使えば他のことにはエネルギーを使えなくなる。自分の子孫を残すことを重視して配偶子を充実させるなら、自分の生存のために使えるエネルギーは少なくなって死に追いやられる危険性は高まるだろう。「高等生物」であるホモ・サピエンスは、主に農業という最高の発明によって、生存や繁殖においては資源をほぼ無限に使えるようになったかもしれないが(ただし分配の仕方を誤れば、我々は単なる生物へと容易に墜落する)、他の生物よりも圧倒的に時間という資源に支配されている。地上で生きている限り、我々は平等に1日24時間という一定の時間の範囲内で生きなければいけない。したがって、何かに多くの時間を割くなら他のことには多くの時間を割けない。何か一つのことを成し遂げるには、他のことは諦めなければならないのである。学業で成功するためには勉強に莫大な時間をかけなければならず、それ故に遊ぶ時間は少なくなる。テニスが上手くなるためにはたくさん練習しなければならず、その他の趣味に没頭する余裕はなくなる。外見を良くしてモテるためにはaケショウをしたり髪をセットしたりするために早起きしなければならず、睡眠時間は削られる。

僕はスタジオジブリの『もののけ姫』を見て、宮崎駿監督の自然及び人間への深い洞察力に恐怖さえ感じ猛烈に嫉妬したのだが、その嫉妬は無意味である。たとえ自分に創作の才能があったとしても、これまであまりにも多くの時間を創作ではなく勉強に割いてきたのだから、宮崎駿になれないことは明らかである。しかし代わりに宮崎駿は数学や物理の美しい世界は感知できないに違いない。凡人がとても敵わないような人を例に挙げる必要はない。僕の周りには羨ましい特質を持った人が大勢いるが、彼らはその特質を獲得するために多分の時間をかけてきたのである。大抵の人はその代わりに、僕よりも勉強に時間をかけることはできなかったに違いない。そうやってトレードオフは機能している。各人にとって何に時間をかけ何を実現しようとするのかは、完全に自由なはずである。

しかし、近代社会はbヒニクなことにその自由を抑圧する。先人たちがまさに血を流して自由なる近代社会を作り上げたにも関わらずである。我々は真に自由に時間の分配をすることはできず、ア根源的に近代社会の奴隷である。近代社会は資本主義と共進化してきた。本来、勉強ができることもスポーツができることも、絵が描けることも歌が上手いことも、楽器を弾けることも鉄道の知識がやたらとあることも、コミュニケーション能力が高いことも性格がいいことも全て差はなく、各々の好みに応じて、これらを体得するために適切に時間を分配し、努力することが促されるべきなのだが、近代社会は勉強以外に時間を割く人間が大嫌いである。彼らは富の生産能力が低いからだ。社会の役に立たない人間だとみなされるのである。オリンピックに出られるほどではないが学校で1番スポーツができる人よりも、学歴でしか人を評価できない愚かな東大生の方が能率良く資本を増殖してくれるから、社会は彼らの方を好む。

近代社会は高学歴で「有能な」人間を集めるために楽園を用意する。楽園というのは、大企業に難なく入り高収入を得る権利を与えられる世界であり、それ故にそこに入った人間を魅力的にさせる世界である。この近代社会の嗜好の偏りに気付かぬうちに影響されて、我々は高校生になると、芸術やスポーツやその他の趣味にかける時間を次第に減らしていき、いつの間にか机に向かいペンをとり、楽園に入ることを目指して盲目的に努力する。いや、高校生になる以前からそうかもしれない。多くの親は、子どもが幼い頃から勉強しなさいと言い続ける。子どもは問題が解けたら褒められ、問題が解けなければ叱られ、褒められるためにたくさん勉強する。親は子どもが将来社会で成功できるように、子どものためを思ってそう言っているのかもしれないが、残念ながら資本主義及び近代社会の言いなりになっていることには気づいていない。

楽園に入ることができた人間は、自分は頭が良い、優れた人間だと思うだろうが、そう思うことによって、自分が本当は、近代社会に支配されていることに気づけない盲目的な人間であることを証明してしまっていることには、一向に気づくことがない。我々は資本主義の圧力を受けて、訳もわからず勉強にのみ時間を費やし、結果的に高い能力を得て社会的に「使える人間」になることを強いられてきたのだ。

そうして生産される若者はどんな人間であろうか。近代社会の要求に抵抗し勉強に時間を費やさず、近代合理主義的な価値観でいえば「努力不足」の人間は就職に苦労し低収入に苦しむ。彼らは近代社会の恋愛対象から外されてしまったのだ。金がないから好きなことを自由にできず不満も募る。日々の生活をやりくりすることにcヒヘイし、月曜日を迎えることが苦痛になる。老後を楽しむための貯蓄も十分にできないから、未来に希望を持てなくなる。

一方で無事に楽園に入ることを許された人間もまた、高い効率で生産活動をするだけの、交換可能で没個性的なロボットである。近代社会が要求する特定の方向にみな努力した結果、個性を持たず画一的に行動し、ただ金を稼ぐだけの人間へと成長してしまうのである。勉強する過程で勉強が面白いと感じることもあるに違いないが、彼らを勉強へと誘う実体は知りたいという欲求ではなく、高収入を得て安定した生活を送りたいという欲求であるから、一度その願望を叶えられる状況に至れば、もう何も自分から世界に働きかける必要はなくなる。稼いだ金で好きなことができれば幸せじゃないかという声が聞こえてきそうだが、彼らは近代社会に縛られたまま、金を稼ぐための仕事を機械的に行うだけであり、元々自分が持っている人間的な価値を最大限に活かせぬまま老いていくのである。イ今の社会において、どの人間も生きる意味を見失ってしまっているのではないか。

頭の良さは人間の持つ価値の一要素に過ぎない。人間はみな、各々に特有の多面的な価値を持っている。ここでの価値は資本主義的な価値とは意味が完全に異なる。富に還元できない固有の実体である。勉強ができること、スポーツができること、芸術の才能があること、他者の気持ちを思いやれることは全て同等の価値であり優劣などない。これらの価値を得るための時間の分配の仕方は個々人が自由に決めるべきである。ところが、今の社会は頭の良さを偏重している。その結果、本当の意味で幸せな人間は少ない。全員が生に意味を見出せるようになるためには、ウもっと人間の多面的な価値に注目した新しい社会を作らなければならない。それは今の資本主義を基盤とする社会を手直ししたものではあり得ないし、マルクス主義をそのまま適用した社会であってもうまくいかない。資本主義でもマルクス主義でもない新しい仕組みを構築していく仕事は、まさにこれから社会を生きる若者の手に任せられている。

そしてその新しい社会の土台となるものは従来の資本主義的な等価交換ではない。むしろギブアンドテイクのバランスのずれを各々が積極的に容認し助け合う精神である。得意分野において自分が積極的に行動し、その分野を不得意とする他者に知識や技術を分ける。見返りは求めない。知識や技術をもらった側は感謝し成長しようと努めるとともに、今度は別の場面で他者を助ける。そうしたアンバランスな関係を繋ぎ合わせていくことで、我々は資本主義を基盤とした近代による支配を逃れ、心を媒体として他者とともに「老いることなく」生きられるようになり、両者の持つ価値はいっそう輝いたものになる。この関係が当たり前のように確立している東大庭球部が僕は好きである。エ真の人間性は近代を超えたところに現れるのだ。

(星川歩夢「堕ちたる近代社会」による)

[注]◯宮崎駿──日本のアニメーション監督・アニメーター・脚本家・漫画家(1941〜)。

設問

(一)「根源的に近代社会の奴隷である」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。


(ニ)「今の社会において、どの人間も生きる意味を見失ってしまっている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。


(三)「もっと人間の多面的な価値に注目した新しい社会」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。


(四)「真の人間性は近代を超えたところに現れる」(傍線部エ)とはどういうことか。本文全体の論旨を踏まえて一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。


(五) 傍線部a・b・cのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。

a ケショウ b ヒニク c ヒヘイ

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