引退の言葉〜豊田陽菜〜
こんにちは。東京大学運動会硬式庭球部女子部前主将の豊田です。
引退にあたり、ブログを書かせていただきます。生成AI使いません。
引退後の近況報告としては、女子部練にOGコーチとして顔を出し、テニスコーチのバイトを始め、結局週3か4でテニスしています。ひたすらに勝ちを求めガンギマっていた現役時代特有の楽しさと苦しさからは離れ、純粋にテニスをエンジョイしています。
また、先輩方が労いの言葉をくださったり、ご飯に誘ってくださったり、庭球部での繋がりがこれからも続くことに心強さ、嬉しさを感じると同時に、とてもありがたく思っています。これからもよろしくお願いします。私は就職のタイミングで関西に戻りたいと思っているので、あと二年半は関東でのテニスライフを楽しみ、その後はOBOG双青戦への参加、OBOG会関西支部、東京旅行でOG会に参加、出張のついでに応援、などの形で関わっていけたらと思います。
さて、引退式では「後輩に伝えたいこと」を端的に伝えさせてもらいました。「思い出話とかないんですか」って言われたので、引退ブログ本題のテーマはそれでいきます。文章下手なりに正直に書くので、なんやこいつと思われるかもしれませんが、お付き合いください。
東大庭球部との出会いは高一の時でした。2019年4月、中高の先輩である山田ひろきさんが東大庭球部に入部されたことを知り、Twitterで庭球部を追うようになりました。7月に女子部が七大戦優勝したというツイートをみて、その強さに、写真にうつる誇らしげな笑顔に、大きな憧れを抱きました。8月に学校行事(東大志望への洗脳イベント)で東京に行き、ひろきさんからお話を伺いました。「めっちゃ強い人おるで、楽しいで」という話を聞いて東大(庭球部)志望に傾いていきました。ちょうどこの頃、テニスも勉強も良い結果が出るようになっていたので、「テニスも勉強も頑張るぞ!」と思って高校生活を送っていました。
また、高三の時、同じ奈良県出身の北さんが東大庭球部に入部されたことを知り、私の心はやる気でさらに燃え上がりました。現役で入らないとひろきさんと代が被らないこともあって、「現役合格か、死か」ぐらいの気持ちで勉強しました。ひろきさんと北さんを追いかけて東大庭球部での生活を得られたので、お二方には本当に感謝しかありません。
晴れて現役合格し、合格発表直後(3/10の12時すぎ)に入部宣言をし、下宿の契約や引越し準備、Newラケットの購入、友達との遊びなどバタバタした二週間を過ごして、テニス頑張るぞ〜という気持ちで大都会奈良から辺境の地東京へ下りました。ひろきさんから、「一年の時から駒場じゃなくて本郷のコート近くに住むべき」という最高のアドバイスをいただいていたので、家探しにおいて素晴らしい選択ができました。
大学テニスの始まりは、二次試験の二週間前に寝起きに滑って転んで左腕を折っていたので、片手バックスライスの練習からでした。折れたのが左腕で良かった。高校の時はスピンで押してフォア打ち込むという形で、大学入ったらスライス練習しようと思っていましたし、プレーの幅が広がってよかったです。ただ、元々バックの方が苦手なのに、バックのスピンのブランクが余計にできた上、試合でスライスを多用したことで、スピンに関してはその後結構苦労しました。
中高は男女比4:1で女子が少なく、男子と一緒に練習していたので、「モチベの高い女子の集団」としての部活がとても新鮮でした。先輩方と練習したりいろんな話をしたりする日々が本当に楽しかったです。一番印象深いのは、みなほさんとの七大戦をかけた新入生セレクです。53の40-30までいって、そこから長いデュースとタイブレの末に67で1stを落として、体力が限界で絶望しました。今思うと、もし1stとってたとしても、慣れられて攻略されていた気がします。上級生の体力と経験は下級生からしたらチートです笑。
この後に腰を怪我して3ヶ月離脱が確定し、リーグに出るチャンスもなくなり死ぬほどつらかったです。勉強漬けの生活を一年送ると想像以上に体がなまっていたようです。ブランクを取り戻そうと焦る気持ちはわかりますが、後輩たちは怪我には気をつけてほしいなと思います。一年の夏は、先輩方の試合を見て応援していてとても勉強になりました。特に、憧れの七大戦は、他大学にも上手くて強い人がたくさんいる中、いいプレーをして勝つ、格上の相手に善戦する先輩方を見て、「来年は自分が出て勝つんだ」と決意しました。

(七大戦2022 in仙台 準優勝!)
リーグでは、当時の4年生の先輩方の集大成ともいえる姿を間近で見て、それぞれの強みや武器が発揮された数々の試合に本当に胸を打たれ、自分もそのようなプレーができる選手になりたいと思いました。また、高二の時はコロナの影響で拍手応援や応援禁止だったので、円陣や声出し応援でのチームの団結はすごくいいものだなぁと思いました。

(マスク着用の時代)
代替わりして女子部の人数が減り、秋からは平日練で男子部練に参加させていただきました。1Aから4Sまでの3年間、男子部のみなさまには練習もセレクも本当にお世話になりました。
1年秋から2年夏の1年間は、テニスと遊びに明け暮れました。第1志望の学科が不人気なのは悲しいですが、進振りのプレッシャーがなく、単位さえ取ればいい気楽さはありがたいものでした。男子部練に入ったり、対外試合が多かったりして、いろんな人と打てるのがシンプルに楽しい毎日でした。翠さんと4時間超のセレクを、「5限は諦めても試合は諦めない」という熱い気持ちでやっていたのが懐かしいです(さようなら私の出席点)。
また、高校まではシングルスばかりやっていたので、ダブルスをまともにやるのが初めてでした。ボレーやスマッシュが上達し、「シングルで負ける強い相手にダブルスなら勝てる」という経験ができたのも新鮮で楽しかったです。特に、1年の秋季リーグでの翠さんとのダブルスは今でも強く覚えています。

(翠さんとの激アツダブルス)
この年はawayがとても多く、博多・仙台・京都・白子(東京開催やのに千葉)に行きました。前回のブログで詳しく書きましたが、遠征最高でした。
この頃からD1, D2, S2で試合に出ており、関東の五部校相手では単複ともにそこそこ勝てるけど七大戦や定期対抗戦のS2が厳しいという状況でした。この年の七大戦はかなり負けて、七大戦で活躍することを夢見ていただけに、本当に悔しい思いをしました。特に、男子部女子部みんなに応援してもらいながら戦った、自分にかかったシングルスは鮮明に覚えています。こういう試合で勝つ選手になると誓いました。
リーグは、重みとかプレッシャーとかは特に感じず、自分が勝つとみんなが喜んでくれるのが嬉しくて、「いっぱい試合できて楽しい〜」という気持ちでプレーしていました。
今思うと、人数が減り、リーグや七大に出た人も少ない中で、計画を立ててチームを引っ張り、のびのびテニスさせてくださったえまさんはすごいですし、とても感謝しています。

(リーグ最終戦後の一枚)
翠さんの代、二年秋から三年夏にかけては、紆余曲折あった一年でした。2月までの半年間は、まだ「シンプルにテニスが楽しい」時期だった上に、自分の上達を実感しながら、前よりも戦えるように、勝てるようになってきて、楽しくて仕方なかったです。さらに、無事に第一志望の学科に内定し、コートを出て3分で講義に行けるようになり、興味のある講義ばかりで、新しい友達もできて、日常生活も最高でした。極めつけは2月末の関西遠征。この半年の最大のモチベはそれでした。親が応援に来てくれたり、奈良の友達と再会できたりした上に、満足のいく試合が多く、いい思い出です。実家のご飯も、試合後に六甲道で食べた焼き鳥もおいしすぎました。

(神戸大にて、空と山が美しい)
しかしその後、東京に下ると、見事に燃え尽きてしまいました。以下の文章、怒られそうと思いながらも正直に書きます。
awayの定期対抗戦と七大戦は何がなんでもやりたいから辞める・休部するという選択肢は全くありませんでした(まだ七大の名古屋と北海道、東北九州京都のawayがあったのは踏ん張るモチベとして大きかったです)。
練習や試合に飽きてしまい、日々を消化するように過ごしてしまいました。球出し練など個人の意識に依る練習の質が低くなってしまったなと思います。集中しないとついていけない男子部練や、たまに強い人と試合できるときは、楽しかった記憶があります。テニス自体が嫌になったわけではなかったです。また、この頃から周りの目を悪い意味で意識するようになってしまい、「陽菜は勝つだろうな」と思われている、と思い込みすぎたのもしんどかったです。ネガティブな内面を出して他人に伝染させるのは嫌だったので、絶対にばれないように振る舞っていましたが、周りは燃えているのに自分だけどこか冷めている瞬間が多く、部員としてあるまじき姿で本当にだめでした。3年前期にあたるこの時期は本当に後悔しています。
S2,3あたりで持て余してしまう後輩が今後いれば、「なにがなんでも早く1番手になること、他校のS1に勝つこと」をひたすら追求してほしいなと思います。また、悪い意味で慣れてきてぐだってきたら、練習参加などで外の環境にガンガン出ていくことが大事だと思います。
ずっとつらいしんどい帰りたいわけではなく、東北大戦、双青戦、七大戦を始めとして楽しい、ヒリヒリする、心踊る時はありました。残り3本のシングルス一本も落とせない状態だった東北大戦2日目、全力で声出して走り回った双青戦、この半年で一番ちゃんと集中して取り組んだ・雰囲気がピリピリしていた七大前の金朝ハードコート練、灼熱のハードコートで長時間試合して両足に水ぶくれができアドレナリンに任せて試合した七大戦などは、本当に思い出深いです。本気でやるってきついけど、そこでしか得られない楽しさがあるし、振り返った時にかけがえのない思い出になるんだなと思います。

(七大戦三位決定戦 ハイテンションダブルス)

(七大戦3位!一年生ズは試験のため東京へ…)
リーグ戦には、それまで変に勝ち続けたことで自分を過信した状態でつっこんでしまい、まぁ最後どうなっても勝てるわと思って自分にかかった試合で競り負けてしまった時に初めて、自分の半年間の過ごし方や意識を猛反省しました。自分にかかった試合で、初めて試合中に、手が震えました。チームの勝敗が自分にかかるということの意味を理解していなかった。三年の夏まで、プレッシャーも何もない下級生ムーブをしていてそれはそれで感受性の低さ故に強くはあっただろうけど、ここにきて初めて重さに気づいてしまった。自分はちょっとうまくいってただけのもともと不器用な人間で、テニスに全部捧げて本気でやらないと話にならないと痛感しました。
「勝負事やねんから、腹括ってやらんと」
中高で部活の顧問の先生にずっっっと言われ続けてたことが、徹底できてなかったなと思いました。しかし、後から思うと、この経験は、主将として、S1として過ごした最後の一年に非常に活きました。
何も気にせず、何にも気づかず、楽しくテニスしてこの代を終わっていればまた違っただろうなと思います。最後まで生意気で危なっかしい後輩でご迷惑をおかけしました。貴重な経験をさせてもらってとても感謝しています。

(引退式にて、右側が白いと話題の一枚)
主将として過ごす最後の一年は、リーグで悔しい思いをしたこともあって、「最後の一年ちゃんとやりきって終わろう」と、気持ちを入れ直しました。主将という肩書きによる外圧がかかって、部活に関してはかなり真面目に過ごしました。
調子がいいときは「なんでもかかってこいよ、全部しばいたるわ」というメンタルでいましたが、一年あると波もあり、しんどい時もありました。その時に、外圧がないと抜いていただろうところを一歩踏ん張れたのは自分でもびっくりでしたし、いい経験です。「ほな最初からやれや」っていうツッコミは受け付けておりません。
主将として決めていた目標は、
・後輩たちがのびのびテニスできること
・効果的なシステムや言動の徹底で史上最高に成長する代になること
でした。
チームの方針や練習メニューを決める立場になって、部員のテニスに今まで以上にしっかり向き合うようになりました。組んだメニューが上手くハマって練習の効果が高かった時や、練習したことが試合で発揮されてるのを見た時は、ニヤケが止まりませんでした。頑張る姿や悩みながら成長する過程をより近くで見たからこそ、部員の勝利やいい試合にはこれまで以上に感動しました。応援してて泣かされた試合もたくさんあります。
また、テニスにおける言語化が上手くなったり、客観視の能力が上がったりと、自分のテニスにもいい影響がありました。
この代での結果は、双青戦敗北、七大戦3位、リーグ7位でした。
双青戦は自分が単複負けてしまったのでとても悔しい結果でしたが、当日やれることはやったという思いです。
七大戦では二年連続で負けていた東北大学に勝利することができました。最後後輩たちにかかったのですが、本当に頑張って勝ってくれたなぁと思います。ダブルスは4時間にも及ぶ熱戦を制してくれて、シングルスも強さが出ためっちゃいい試合で、泣かされました。また、三日間で、出た人全員が単複1勝ずつ以上したのも良かったです。チームの総力を感じました。
一昨年は順位戦で二戦が8ゲーム、昨年は雨の影響で二日目以降が打切ありだったり8ゲームだったりしたので、単複3セット三日間やるのは実は初めてでした。鬼ハードモードとはこのことです。観光ガチ勢のこの私が、次の日の昼にHP切れしてホテルに戻って爆睡するぐらいにはきつかったです。いい思い出です。
夕奈がブログで詳しく書いていますが、北海道グルメも最高でした。

(全員で掴み取った七大戦3位!)

(試合後のトリトン)
リーグでは、最終3位だった神奈川大学に予選で勝利しており、十分戦える・勝つ力はあったなと思います。
予選は山梨の都留と茨城の水戸に飛ばされ、awayどころか far awayでした。ただでは帰れないので試合後にほうとうや納豆を堪能しました。本題の試合はというと、予選全勝1位通過して勢いと自信をつけて本戦に臨みました。
本戦ではトーナメントと順位戦で計2敗し、その2試合はあと一勝が取れず3-4という結果でした。勝負の世界の厳しさや理不尽さ、トーナメントを勝ち上がることの難しさを感じたと同時に、チャンスがあった、本当にあと少しだったとも思いました。
結論として、「自分たちがやってきたこと、歩んだ道は間違いではなかった。ただ、相手も強いし勝負事だから、勝つために少し足りなかった」と言えると思います。悔しさはありますが、試行錯誤の日々は楽しく、充実したものでした。
個人的には、ダブルス8戦全勝できたのが満足です。ノーアドやファイナル10ポイントタイブレの「一発勝負・短期決戦」を集中して取れました。シングルスも去年までより強い相手と当たってもしっかり勝つことができたので成長です。
この代について、先輩からは「根性入ったチーム」「応援しがいのあるチーム」と評価していただきました。思い返すと、つりながら勝ったり、ファイナルまでいって逆転勝ちしたり、つりそうと言いながらも64でしっかり勝ち切ったり、正直厳しいかな〜と思った試合でも頑張って食らいついて善戦したり、確かに、みんなの強さやガッツにビックリさせられることが多かったです。一年間こんな騒がしくてアホな主将に呆れながらもついてきてくれて、一緒に戦ってくれて、本当にありがとう。おもろいチーム、おもろい一年でした。
博多や北海道で美味いものをたらふく食べてバイアスがかかっているのかもしれませんが、最後の一年は先輩方の話で聞くほどつらいものではなく、本当に楽しかったです。
最後の一年の思い出を書いてみたものの、それまでの3代での思い出と違ってかなり主将視点になってしまいました。もっと純粋に楽しい嬉しい美味しいとかだけ書けると思ってたんですがね。。

(試合後の焼肉 ご飯行こうの誘いいっぱい乗ってくれてありがとう!)
さて、思い出をいろいろ振り返ったところで、選手として、主将として、S1としての、真面目な話をちょっとだけ。
東大庭球部の熱い人間は「背負う」という言葉をよく使います。「試合でチームを背負ったプレーができる選手」という評価基準が存在します。私はこの意味を最上級生になるまで理解できていなかったなと思います。私の解釈では、「競ったら絶対勝つ人、格下は瞬殺して格上にはできるだけ長い試合をして簡単には負けずチャンスを作る人」です。
では、主将としてチームを背負う、引っ張るとはどういうことか。たどり着いた答えは、「チームの勝敗の全責任を負うこと、全ての結果に対して当事者意識を持つこと」でした。例えば誰かが負けたとして、「惜しかったね」とか「あそこでこのプレーをしてればよかったんじゃない」という声掛けをして終わらせるのではなく、「練習やそれまでの試合での声掛けや意識が〇〇の点において足りてなかった」とか、「以降の練習・試合はこの点を改善しよう」とか考えて実行することです。
24時間365日これを考えていたわけではなく、オンオフははっきりさせていましたが、過程と結果から常に次を見て論理的に考察し実行し続けることでチームを引っ張るのが私の形だったなと思います。一方で、私は部員の心情の変化に気づいて励ましたり気遣いをしたりするのが不得意な、察しが悪い鈍い人間で、先輩にも同期にも後輩にもご迷惑をおかけしました&たくさん助けてもらいありがとうございました。
S1になってから、自分がガンガン外にいって学んで、みんなをプレーでひっぱる必要があると思い、確実に伸びたと思います。1で勝負するのはめちゃくちゃ成長できます。S1のバイブルは翠さんの引退ブログをご参照ください。私はS1として物足りないこともありましたが、このバイブルに従って、前向きに突き進んで成長できました。
焦るでも嘆くでもなく、どんな場面でもどんな相手でも、できることを淡々と積み重ねて勝ちを取りに行くこと、勝ちに一番執着すること。最後の一年が一番意識高くできたなと思っています。(残り時間や立場に関係なくこれができるのが理想ですが。。)
「やること全部やって、だめやったらしゃーない、何が足りんかったか最後に答え合わせやな。」という吹っ切れたメンタルで、「全員が上手く強くなること」を目指して一年間駆け抜けました。結果は七大優勝もリーグ昇格もできませんでしたが、やり切ったあとの景色や達成感は忘れられません。

(リーグ最終戦後の一枚)
だらだらと書いてみましたが、楽しかったり苦しかったり色々あった3年半が、庭球部での日常が、今思うと本当に大切な思い出で宝物です。ここでしかできない経験や学びもたくさんできました。東大庭球部に入って良かったなと心から思います。
最後になりましたが、これまで支えてくださった赤門テニスクラブやOBOGの皆様、同期の仲間たち、後輩の皆様、指導者の皆様、ありがとうございました。本当にお世話になりました。
まだまだテニス続けます。これからは女子部コーチとして、OGとして、後輩たちを全力でサポートさせていただきます。帰省時にはラケット持って帰るので、関西でも関東でも、テニス誘ってください。


