引退のことば-岡島宏樹
こんにちは。みなさんお久しぶりです。
引退してから数日が経ちましたが、あれからまだラケットを握っていません。狂ったようにテニスをしていた日々からしばらくは抜け出せないものなのかと思っていましたが、案外そうでもないみたいです。腹筋の線が一本消えました。まずいですね。
人間というのはどうも多面性を持っているもので、不真面目で笑いを取りたがるZIMAことジーマが引退の言葉を書こうと思ったのですが、どこまでも真面目な岡島くんがどうしても書きたいと言ってきかないので、彼に筆を任せたいと思います。
『僕のテニス人生』
岡島宏樹 (4年・開成高校)
「おかじって、真面目にやってるけどなぜか伸びないヤツ、って感じだったよね」
高3の終わりに、中高と仲の良かった仲間に言われた言葉である。この言葉は、大学でもテニスをしようと決意させるには十分すぎるものだった。
僕がテニスと出会ったのは幼稚園の時である。体育館をリフォームしただけのテニススクールに母親が通い始めて、それを見学しているうちに、自分もやりたいと思うようになったのだ。それから細々とテニスを続けてきて、中学では硬式テニス部に入った。その時は入部希望者が多く、入部テストなるものが実施された唯一の年で(皆仁さんの代がバカみたいに多かったのが原因)、倍率はおよそ2倍だった。ここで落ちたら一生テニスしないだろうなと思いながらテストに臨み、体力テスト・面接を経て、合格した。よっしゃと思いテニスへのモチベーションが上がった僕を待ち受けていたのは、球拾い地獄だった。およそ2時間半の部活の中で自分たちが打てる時間は長くて10分。球拾いとトレーニングばかりの時期が続いた。それでもトレーニング中での素振りやボレーボレーが楽しくて、部活をやめるという発想には至らなかった。
学年が上がるにつれてテニスができる時間も長くなり、部活の雰囲気もゆるくなった。トレーニングも球拾い中も雑談が多くなった中で、それなりに真面目に取り組んでいた僕は、まわりに比べて実力が伸びていないことに悩んでいた。中高の部活にはコーチはおらず、最高学年が後輩を指導するという形式であったため、悶々とした悩みを誰かにぶつけることができずにいた。一番くすぶっていた時期だったと思う。
最高学年になって最初の半年、中学3年生(須藤伊草星合長澤という問題児の代)を担当することになった。指導というのは難しいもので、純粋な目で聞いてくる後輩(須藤ではない)に教えるというのは、自分の思考が整理されて言葉になっていないとできない。当時の17歳の僕には難しすぎるものだった。まず自分の感覚を言葉にすることから始めた。難しい。特に考えてテニスをすることのなかった自分にとっては、「こんな感じ」「ここら辺でこうすれば打てそう」「なんか今日合わないな」(最終的には「テニスってやっぱムズイな」に至る)そんな感覚だった。
ある日、このままだと何も指導できないと思い、なるべく感覚を言葉にして書き出してみた。そこで気づいたことがあった。
言葉にできたショットは、100%打てる
なんてこった。当時のへたくそな僕はすべて感覚で打っていたから、狂いだすと止まらないし、うまく行っていてもなぜうまく打てているのかがわからないから、次に活かせなかったのか。
その日から、テニスをするときに思ったことを言葉にして、書き留めるようにした(長澤は俺のパクリ)。自分のショット一つ一つが明確になっていくことで、後輩への指導も簡潔にできるようになった。そこら辺からだろうか、実力がめきめきと伸び始めたのは。
そんなこんなで最終的にはレギュラーになることができたし、団体戦も個人戦もそこそこ良い成績をおさめたし、個人的には満足いくくらいできたのかなと思っていたところで、冒頭の言葉である。このまま続ければもっと強くなれるんじゃないだろうか、もっとテニスが楽しくなるんじゃないだろうか。もう4年間、テニスに費やしたい、そう思った。
さすが岡島くん、話が長いですね。このまま彼に任せておくとおそらく何回スクロールしても終わらなくなってしまうので、やめさせます。話がかたすぎるので、ところどころ茶々をいれておきました。大学時代のことはfacebookに書きましたしいらないでしょう(宣伝)。
おそらくですが、彼が言いたかったのは、「うまくいった時の感覚を忘れないためには、言葉にするのが一番だ」ということみたいです。もちろん僕にとって一番よかったというだけですが。
うまくいかなくてくすぶってるみんな、ちょっとやってみてください。あなたに合うかはわかりませんが、ひょっとしたらうまくいくかもしれないですヨ。
こんなところで、筆をおきたいと思います。
三年半、本当にありがとうございました。