新しい代になって〜北慎之介〜

こんにちは。東京大学運動会庭球部男子部主将の北慎之介です。

初めに、赤門テニスクラブやOB・OGの皆様方におかれましては、平素より多大なるご支援のほどありがとうございます。

本年度は、対抗戦勝ち越し、双青戦勝利、七大戦優勝、国公立優勝、4部復帰の「五冠」を目指して、部員一同頑張っていきますので、応援のほどよろしくお願いいたします。

さて、今回は自分がテニスをする上で意識している「無思考法」という話をしようと思います。
松田さんが、以前、ブログの中でこんなことを書かれておられました。

何十本も後ろでラリーして勇気を出してネットを取って難しいファーストボレーを厳しくコントロールしても、最後にカッコよくスマッシュを決めようとしてネットにでも掛けようものなら一発で相手の得点です。どれだけ難しい股抜きショットを入れても、次に凡ミスをしたら相手の得点です。こんな理不尽なスポーツがあるでしょうか。芸術点の1つでもくれよ、と1ヶ月に1回は思っています。(東大庭球部BLOG,2022,04,02)

私は、ここに勝つ上でのヒントが隠されているように感じました。それは、テニスは「用」が「美」に先立つ競技だということです。ここでの「用」とは美しさ(見た目)に関わらず、ポイントを取るために「使える」ショットや考え方のことを指しています。このことを説明するために、私が駒場の授業で触れた「民藝論」を応用してみたいと思います。

柳宗悦という人物、あるいは「民藝品」というものをご存知でしょうか。

柳宗悦(1889-1961)は美術評論家・哲学者であり、生活の中の素朴なものに美しさを見出す民藝論を主張しました。柳は民藝品について以下のように説明しています。

第一は実用品である事、第二は普通品である事。裏から云へば、贅沢な高価な僅かより出来ないものは民藝品とはならないわけです。見る為より用ゐる為に作られる日常の器物、言ひ換へれば、民衆の生活になくてならぬもの、普段使ひの品、沢山出来る器、買ひ易い値段のもの。即ち工藝品の中で、民衆の生活に即したものが広義に於ける民藝品なのです。(柳宗悦『民藝の趣旨』、1933)

つまり、「触れないでください」と注意書きがそばに置かれていたり、美術館のガラスケースに入っていたりする芸術作品は「民藝品」とは言わないということであり、普段の生活の中にある、実用的なものが「民藝品」であると言っているのです。

毎日触れる器具であるから、それは実際に堪へねばならない。弱きもの華やかなもの、込み入りしもの、それ等の性質はこゝに許されない。分厚なもの、頑丈なもの、健全なもの、それが日常の生活に即する器である。 (柳宗悦「下手ものの美」、1926)

さらに、柳の民藝論を説明する例として、彼がイギリス人のデザイナー・思想家であるウィリアム・モリスを批判した話があります。

彼の建てたと云ふ有名な「赤き家」を見られよ。如何に甘い建物であるか。それは一つの美的遊戯に過ぎない。「赤き家」は一つの絵画であつて住宅ではない。美の為であつて用の為ではない。特に内部の装飾に至つてそれは完全な失敗である。その壁紙の模様の如きは見るに堪えぬ。(柳宗悦 『工藝の道』、1928)

ここで柳は、華やかなもの、細かな装飾が施されたものよりも「民藝」的なものの方がはるかに美しく、大切であると述べているのです。すなわち、先ほどの話のように「用」が先にあってその後に「美」があるということです。「用」とは「使うことができる」ということであり、これらをテニスに置き換えてみると、「美しいショットを打つ」、「派手なショットを打つ」よりも、「ミスを減らす」ことが大切になると言えるでしょう。例えば、「ダブルフォルトをしない」「ニュートラルラリーでミスをしない」「チャンスボールを決め切る」というのは、自分が使えるショットが「分厚なもの、頑丈なもの、健全なもの」であるということです。強い選手による「かっこいい」「すげー」「オシャレな」ショットは、こうした「用」の上に成り立っているのであり、「用」のショットの向上が勝つためには必要であると改めて理解できるのです。

しかし、人は誰しもかっこいいショットを打ちたいという気持ちにもなります。そこで、「無思考法」の登場です。私は、特に大事なポイントでこそ何も考えないようにしています。これは、いわゆる「無心」でテニスをするということです。柳はこの無心につながる概念として直観を取り上げています。

直観とは、あらゆる独断を拭ひ去つた理解をいふのである。直観をよく主観と混同する人があるが、大いに違ふ。主観は主我的で、自己中心で、自分勝手の観方の事である。然るに直観は、自己を忘れた境地に入る事である。(柳宗悦「追補その二 直観について」、 1958)

無心で来た球を素直に返すこと、すなわち直観で返すことによって、「かっこよく決めたい気持ち」が意識されなくなったり、「ショット選択に迷うこと」がなくなったりするのです。しかし、なんの準備もなく「無思考」「無心」で試合を行うわけではありません。そのための、練習です。さまざまな状況に応じたパターン練習や、スピン、スライス、フラット、前後を考えながら打つ。すなわち、試合の中で、「無意識的」に正しい足、振り、動きの選択、そして正しい判断ができるように、「意識的」に練習を行うということです。こうした無意識的なショットこそ、柳の民藝論における「用」と言えるのではないでしょうか。「分厚なもの、頑丈なもの、健全なもの」だからこそ無意識にできるのです。

さらに、イギリスの詩人であるウィリアム・ブレイクは以下のように述べています。

The Eye sees more than the Heart knows「見る眼は知る心よりも勝る」 (Blake, Visions of the Daughters of Albion)

これはブレイクを語る上で外せない言葉として知られています。この言葉からは、眼という肉体は事実として存在するものであり、心という抽象は只の概念であると考えられます。つまり、大切なことは肉体(目)を通した切実な「経験」であり、架空な「虚想」ではないということです。私たちは、しばしば、相手選手の戦績や噂によって萎縮する、あるいは油断することがありますが、必要のない「虚想」によって実際の試合感覚に影響を与えないようにすることが大切なのです。そして、経験が直観を養うことは言を俟たないでしょう。

練習では、試合に入る前には、理屈も、思考も、知ることも必要です。だが、一度試合に入れば、「思考」「美」ではなく「無心」「用」が必要なのです。そして、「用」を重ねた先に勝利という「美」が生まれるのではないでしょうか。私は芸術的なショットが良い悪いなどということを言いたいのではありません。要するに、状況によっては、無心で、直観に従ってテニスをすることも一つの考え方だということです。かなり強引な形で民藝論とテニスを関連付けてきましたが、もしもこの考え方が誰かの役に立つようなことがあれば幸いです。

以上です。失礼します。

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